古代ギリシア人から見れば、現代政治は「民主主義」ではなく「寡頭政治」

picture: Pericles had some rather advanced ideas about politics. PabloEscudero, CC BY-SA: ペリクレスは政治についてかなり先進的な考えを持っていました。

[公開日] 2016 年 6 月 3 日 11:19am BST
[著者] Paul Cartledge

記事を音読します。

私たちが現在使っている政治用語は、ほとんどとは言わないまでも、その多くが古代ギリシア人の言葉に由来する。「アナーキー(無政府状態)」や 「デモクラシー(民主主義)」にはじまって、そもそも「ポリティクス(政治)」という言葉自体がそうだ。だが彼らの政治と私たちの政治は、全く異なるものである。古代ギリシア人が見れば、どんなタイプの民主主義者であっても、現代の民主主義体制はすべて「寡頭政治(オリガーキー)」だと考えたことだろう。ここで言う寡頭政治とは、(必ずしも明確に少数者のための支配だとは限らないが)少数者の少数者による支配であり、民衆・多数による権力や支配(デモクラティア、すなわち民衆の支配)とは対照的である。

これはたとえ、その少数の支配者が、たまたま全国民による選挙で選ばれたとしても同じことである。というのも、古代ギリシアでは選挙自体が寡頭政的であると見なされていたから。選挙は少数の人々、それも特に少数の超富裕市民に、有利な制度だった。つまり、ボリス・ベレゾフスキーやその同類 (Boris Berezhovsky and his kind) のおかげで、今では「オリガルヒ: oligarchs」の名でよく知られ、「超富豪: plutocrats」とも単に「金持ち: fat cats」とも呼ばれる、あの人々である。

一方、古代と現代の政治的な考え方には、重要な共通点がいくつかある。たとえば、古代でも現代でも、民主主義者にとって、自由と平等は本質的に重要であり、政治的価値観の核心である。だが、古代ギリシアの民主主義者にとっての自由とは、政治プロセスに参加する自由だけでなく、法的隷属、つまり現実に動産奴隷であることから自由であることをも意味していた。

picture: Aristotle favoured the democratic model. Jastrow, CC BY:アリストテレスは民主主義モデルを支持しました。

さらに政治参加の自由とは、たまにしかめぐって来ない選挙というお祭り騒ぎ (saturnalia) のことを意味したのではなかった。現代では、総選挙や地方選挙(もしくは国民投票)の時にしか、政治における支配者と被支配者が一時的に入れ替わる機会はやって来ない。現代人のほとんどは、この選挙こそ民主主義の重要な形態であると考えているが、古代ギリシア市民にとって政治参加とはむしろ、みずからが政治権力にあずかり、ほとんど毎日のように統治に参与する自由を、意味していたのである。

紀元前4世紀、6000人以上の成人男性市民からなるアテネの民会 (the Athenian democratic assembly) は、平均して約9日ごとに会合を開いていた。それは全体集会による統治であったが、いわば重要議題について隔週で国民投票を行うことに等しかった。

平等ということ――古代と現代

世界の人口のうち最も富裕な1パーセントの人々が、残り99パーセントを合わせたのと同じだけの資産を所有している現代にあって、平等とは、少なくとも社会経済的観点からいえば、夢物語であるのが関の山である。しかし古代ギリシア、とくに古代アテネ民主政では、こうしたことがもっと上手に管理されていた。

古代の統計的なデータは、残されていない。というのも、古代人が官僚制を持たなかったことは有名で、直接個人に課税することは市民に対する侮辱だとみなしていたほどだからだ。しかしながら、古典期(紀元前5〜4世紀)のギリシア、とりわけアテネは、それ以後のどの時代のギリシアよりも、あるいは他のほとんどの前近代社会と比べても、人口が多く都市化が進んだ社会で、かつ生存水準以上の生活を送る人口の割合が高く、さらに所有財産の配分もより平等であった、という学説は、今日広く支持されている。

これは、古代ギリシアが私たちに、すぐにも応用可能な民主主義のお手本を提供してくれる、という意味ではない――私たちは今日、すべての市民が、少なくとも成年有権者としては、性別に関係なく絶対に平等であり、人間を動産として合法的に奴隷化することは正当でも有用でもない、と一般には信じているからだ。

Plutarch: preferred the notion of monarchy. Odysses, CC BY:プルタルコス:君主制の概念を好んだ。

にもかかわらず、古代の民主主義の概念や手法の中には、実際非常に魅力的に思えるものが数多くある。たとえば役人を抽選(sortition) で選ぶことがそうである。これは、国民を代表するサンプルとして役人を選出することを目的とした、くじ引きによる無作為な選出方法である。あるいは陶片追放(オストラキスモス: ostracism)。これは市民たちが一人の候補を指名して10年間国外追放し、政治家としてのキャリアにとどめを刺すための慣行である。

そして何より、私たちの民主主義と古代ギリシアの民主主義とを比較し、あるいはむしろ対比させることは、古代とは非常に異なる現代の(直接制ではなく代議制)民主主義体制において、いわゆる「しのびよる黒幕寡頭政治: creeping crypto-oligarchy」を、明るみに出すのに役立つのである。

あり得る限り最悪のシステム

私たちは今や、だれもが民主主義者ではないか? それともちがうのか? 現代のあらゆるシステムに、さまざまな形で埋め込まれている、以下の 5 つの欠陥を考慮すると、私たちは民主主義者とは言えないかもしれない。

(1)現時点で最も適切な例としては、2003 年、米国のジョージ・W・ブッシュ大統領も英国のトニー・ブレア首相も、国民の大多数からその決定に対する支持を一度も得ていなかったにもかかわらず、米国と英国がイラク戦争に突入できたこと。

picture: Churchill: the worst of all possible systems. Pygar1954, CC BY: チャーチル: 「あり得る限り最悪のシステム」

(2)現代のいわゆる「民主主義」下での国民は、人生の最大 5 分の 1 の時間を、前回の選挙で大多数の国民が投票した政党・候補者以外の政党・候補者によって、支配されている。

(3)さらに、現実の選挙は「自由で公正」ではない。選挙はほぼ常に、最も多くの資金を費やした側が勝利し、それゆえ多かれ少なかれ腐敗している。

(4)選挙に勝つことに関して言えば、いかなる政党も、何らかの形で(露骨にも利己的な)企業の支援なしに政権を握ったことはない。

(5)そして、おそらく最も非難されるべきことは、大多数の人々が公的な意思決定から組織的に排除されていること。これは、多数の「死に票」発生による議席数の偏り、金が幅をきかせる選挙、そして、議員は一旦当選してしまえば次の選挙まで、何が起ころうと、罰せられずにそれを無視する権利を有していること、によるものである。

要するに民主主義は、古代ギリシアにおける「民衆の支配」といった意味を変質させ、民意の実現どころか、その反映という目的すら見失ったようだ。

かつてウィンストン・チャーチルは、「民主主義は最悪の政治システムだ――それ以外のあらゆる政治制度を除けば」と評した。彼がそう言った気持ちは、よくわかる。しかしだからといって、みんなが認める現代民主政治の欠陥を、いつまでも無視していてよいわけではない。未来へ戻ろう――古代ギリシアの民主主義者とともに。

この記事は、クリエイティブコモンズライセンス(CCL)の下で The Conversation と各著作者からの承認に基づき再発行されています。日本語訳は archive4ones(Koichi Ikenoue) の翻訳責任で行われています。なお、この記事の翻訳については、著者であるカートリッジ博士の助言に従い、東京大学の橋場 弦先生に最終チェックと修正をして頂きました。オリジナルの記事を読めます。original article.

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